京都市の西部に流れる桂川。
嵐山から市内へ流れるこの川の源流は亀岡である。
嵐山から亀岡は、保津峡と呼ばれる渓谷がある。
保津峡を流れる保津川、そして保津峡自体は風水でいうところの「龍」である。
保津が龍であるということは確かで、
平安京はその龍の力を利用していた。
龍を傷つけたり、流れを断ったものは、死の報いを受けるという。
田中源太郎という、亀岡で、貴族院等で政治や経済を発展させた人がいた。
関西電力の元や、京都銀行の元である亀岡銀行、京都証券取引所の元の京都株式取引所、そして、「京都鉄道株式会社」を設立。
亀岡と京都を結ぶ、悲願の鉄道を、資材を投げ打って作った。
あまりに悲運なことに田中源太郎は、自ら作った鉄道で、その龍の保津峡で列車事故に巻き込まれて死ぬこととなる。
原因は事故説や、暗殺説など流れるが、
どちらにしてもつじつま合わせだろう。
それはまちがいなく龍だろう。
その路線は今でも、トロッコ嵐山と亀岡を結んでいる。
トロッコ列車から保津峡。
川は合流地点が重要であるが、保津川もいくつもの川が合流している。
その中でひときわ重要な川が七谷川である。
亀岡駅から北方面に、その七谷川があるが、その近辺には、
多くの神社仏閣があり、中でも出雲神社や、亀岡最大の古墳、車塚古墳がある。
この地は、非常に歴史のある場所である。
出雲神社
保津川をどんどん上流へ行けば、若狭、日本海方面へ辿ることが出来る。
故に、ここに、出雲系の神社があるのではないか。
車塚古墳
保津峡を下れば、嵐山、嵯峨、太秦の地があり、秦氏が支配していた。
丁度、この辺りで、先住していた出雲系と秦氏が争った記録があるそうだ。
秦氏が、結局、亀岡も掌握する。
秦氏とははたを織るから秦氏という説もあるが、
亀岡には、桑畑、すなわち絹が盛んに栽培された。
この亀岡の地名には、桑田郡等の桑が多い。
平安時代以前、京都西部から亀岡にかけて、秦氏が実質支配しており、朝廷の権力も及ばない、治外法権だった。
桓武天皇は、一度長岡京で大失敗しているが、平安京へ遷都し、復活できたのは、この秦氏のスポンサーのおかげである。(絹で儲けていたようだ)
秦氏の織りや絹の技術はやがて、西陣織や友禅染などに発展したのだろう。
さて、出雲神社、車塚古墳の同じ横ラインには、高雄山や神護寺がある。
そんな、霊的な場所から流れる七谷川を始め小さな支流は、保津川と合流する。
その合流地点は丁度現代の亀岡駅の北側である。
ちなみに、亀岡駅は、平安京の太極殿、千本丸太町から真西(レベルS)である。
当時何があったのか気になる所だ。
その亀岡駅の南に、亀山城跡(明智光秀)があるが、この真東(レベルS)が二条城である。
さらに、太極殿(千本丸太町)から、車塚古墳を結ぶと、途中に、清和天皇陵が完全に線上に存在する。
また、その線上の近くには、嵯峨天皇陵がある。
嵯峨天皇陵を厳密に、対極殿(千本丸太町)から線を引くと、延長線上は亀岡の春日神社にあたる。こちらは保津峡の西側だが重要なポイントである。
桓武天皇は50代目、嵯峨天皇は52代目、源氏の祖である、清和天皇は56代目である。
平安京初期は、調べていけば、亀岡との関係が濃く、また、その霊的パワーを、川の流れ、天皇陵の位置などで、平安京自体に取り込んでいたような気がする。
上から、太極殿(千本丸太町)から、車塚古墳を結ぶと、途中に、清和天皇陵が完全に線上に存在する。
下は、亀岡駅と亀岡城跡。太極殿(千本丸太町)からほぼ西である。
すなわち、白虎である。
ということは、平安京の白虎が、もしかしたら亀岡だとすれば、、
そうなのです、平安京の規模は、小さな碁盤の目だけの話では無いのです。
亀岡の話は長くなるのでとりあえず。
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2008年06月16日
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この記事を拝見して、東京も、
ちょっと平安京と亀岡に似たところがあるのかなぁ?
と思うところがありました。
東京の白虎・山手線の西の新宿については、
以前ほへとさんもお書きになっていましたが、
最近はさらに西、多摩地域内の中央線・立川駅周辺に、
それまで山手線の外側の北(北区)や南(品川区)等にあった
国の機関を移転・集中させています。
そして、さらにその西の八王子には、大正天皇以降の天皇陵があります。
国の機関の移転は、ただ単に、都内で広い土地が余っていた所
という理由だけかもしれませんが、
都心から西の多摩地域に国の機関(特に研究機関)を集中させることには、
風水的にどのような意味があるのでしょうか?
よく行く研究機関が、すべて立川に移転したので、
それがよいことなのか、どうなのか、気になっています・・・
平安京シリーズが終わったら次は東京も調べたいと思っています、まだ先ですが。
>東京も調べたい
平安京シリーズ、とてもおもしろいです。
東京も調べていただける日を
ゆっくり待っております。
京都へ行きたい、行きたいと思っていたら、
専門分野の夏期セミナーで1週間も行けることになりました!
(ただし、朝から夜までみっちり勉強で、
食事と寝る時間以外は皆無なのです(TT))
今年の夏は、ふつうに(?)暑い夏になるとのこと。
ほへとさんも、どうかご自愛下さい。