よく、偉い人は答えは自分の中にあるというが、
ほへとはそうは思わない。
求めるべき答えというものは、
忘れているのを思い出す時や、計算や考えて分かる以外は、
自分の中にはないと思う。
安易に、答えは内にある的発想では、いつまでも答えにたどり着けないのではないか?
ほへとは、知らないことは知らない。
知りたいことは、そんな簡単なものではないと思っている。
答えを求める、衝動は、今の位置からでは、答えが見えないから、自分を変えてやろうという、チャンスだ。
しょうもない話や浅知恵でごまかすものではない。
逆に分からないということが重要なのだ。
それは自分の行き先、方向、すなわち意志を決める要素になる。
今の自分はぶち壊し、いつか新しい自分に変わるとき、その時の自分がその答えを知っている。
頭ではなく答えが見える位置まで歩んで行けばいい。
歩むとは、いろいろ勉強し、研究し、経験を積み重ねることだ。
(ヒントとしてほへと占い等は活用しようね(笑))
答えが分かったとき、それは解決であり、成長したということ。
そして、答えが分かれば、必ず、過去の疑問を持っていた頃の自分に、報告すること。
例え、どんな結果であれ、プラスに作用するはずだ。
疑問と答えの距離は、自分の成長の距離かもしれない。
何が分からないか、本当に何が知りたいのか、あなたは知ってますか?
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2008年08月25日
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答は私の行動と周りの のあいだにあらわれる、、と感じました。
私は、「答え」を求めて「見つめて」いたのではなく、「見つめる」行為自体を目的としていました。
何がわからなく、何が知りたいのか。
思い出したいのか、本当に「知りたい」のか。
それすらも正直、「わからない」ということがわかりました。
crowさんへ、「わからない」から「知りたい」へは自然に起こるように。やがて、未来の自分ですから、ゆっくりと見つめていきましょ。
「過去の、疑問を持っていた自分に必ず報告しなさい。」という下りを読み、私はこ
の作業をなさないがために、堂々巡りをしているのだと、
その為にいつも必ず同じ場所に戻って来てしまうのだと。あぁそういうことなのか
と、妙にソワソワしてしまいました。
「何がわからないのか、何を知りたいのか、あなたは知っていますか」の問いには、
あまりにビンゴ過ぎてウッと詰まってしまいました。
過去の自分への報告は、実はとても大事な作業です。
是非、みなさんも報告は怠らないように。
今回僕はほへとさんと違った意見なので
初ですがコメントを書かせて頂きます(笑
私は答えは自分の中にあると思います。
わかりやすく言うために「答え」を「結論」と言う言葉に置き換えて話しをします。
「結論」を出すのは自分なので
「結論」は自分の中にある
「他人に結論を選ばれる」と言うのは自分を見失って周りに流されているというに僕は捕らえました。
答えを導き出すためのヒント(材料)は周りが与えてくれるが、
そのヒント(材料)を使って答えを選ぶのは自分です。
ある意味、人から「こうなんだよ」と教えられても自分が受け入れないんじゃないかと思います。
なので答えは自分の中にあると僕は思います。
いつまでも母親にこうやりなさいと言われてる子供のままではいけないです。
今まで、「答え」について、こんなふうに考えたことがありませんでした。
答えは人から「こうなんだよ」と教えらること、と解釈できましたか?そんなことは言っていません、また答えがないなら素直に教えられても良いと思います。
今、自分の中に答えは無いという話で、その中の答えとは「結論」ともニュアンスが違います、この場合は「理解」に近いでしょうか。
ヒロリンさんへ
答えは、中途半端な思考では中途半端になるというもの。
答えについても考えると面白いですね。
これ、よく解ります! さすが、ほへとさん、ご指摘ありがとうございます。
日々、思慮深く!清く正しく美しく すごしていきたいと思います。