セルフとは、自分というエゴが対面している現実の方が実は本当の自分ではないかという考えです。
カメラの例えで言うと、カメラ機がエゴで、撮った写真によるアルバムがセルフという感じです。
エゴ的には、自分はカメラ機と思っている。カメラ機を自慢し大切にする。
しかし、撮った作品である、写真のほうが意味があり、本質な自分を表しているという考えです。
カメラ機にはそれを設計した思想などがあり、エゴにもエゴを設計した思惑があるはずです。
写真には、撮った人の意図が反映するように、セルフにも、生きた人の意識や行動の結果であると考えています。
今3名の目の前に、真っ赤なトマトがあるが、当たり前なこのトマトは3人の心のスクリーンに写っている。
エゴ的には、空間には一つのトマトであるが、セルフ的には、まったく同一のトマトが心のスクリーンに映ることはない。3人の認識力や感性や感情等によって、あるいはまったく違うトマトのイメージが心に作られる。
この3人の一つのトマトに対する認識の違いこそが、その人を表しているという事です。(難しいだろ)
これがわかれば、「相手の立場に立つ」というのが少しは理解できる。
同じ物を見ても、決して同じには感じないものなのだ。
自分の主観ではなく、客観的でもなく、少しは相手の主観を感じようとすることが大切です。
雑談のなかで、ひとつの喩えをした。
もし、この世界に自分が存在していなかったら?
そんなもしもの世界と、今、生きている、知っているこの世界との差は何か?
本来、いるはずのない、世界に、自分がやってきた。
よくある、タイムスリップ話で歴史に干渉して、
歴史を、未来を変えてしまうという話のような話だ。
自分の存在の有無は、とても小さな差かもしれない、意外に大きいかもしれない。
その差というのが、セルフとも言えるのではにだろうか?
生まれて、時間が経つに連れ、世の中に影響していく毎に、細い枝が無数に伸びていき、
成長していく毎に、植物の根や枝木の広がりにように見えているかもしれない。
幾つもの、そんな枝や根が絡み合っているのかもしれない。
また自分自身が暗闇をライトで照らして歩いているような感じでしょうか?
闇に浮かぶ照らされた部分のように、この現実は自分が世界の一部を照らしてできています。
逆に照らされてない闇である、見ていないもの、感じていないものは、自分の中には入らないということです。
本当の自分、セルフのイメージは、鏡に写っている、エゴ的な私ではないということです。
あまり、鏡の中の自分を、自分と思いすぎると、我が強くなりますので注意。
よって、風水では鏡の扱いを慎重にし、むやみに自分が映るようには配置しないのです。(ほへと風水)
ついで、鏡は言葉遊びでは、可・我・見といいます。我を抜きましょう。
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2012年08月06日
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あれは、ほへとさんの言っている「エゴ」を満たしていたのだと、甘やかしていたのだということが、分かる気がします。
今では、日々の反省は日記帳を見ながらするようになりました。
「こうありたい」自分へと、(微々たるものかもしれないけど)近づく努力ができている気がします(笑)
エゴを小さくすれば、セルフが高まるのでしょうか?
相手を理解し、全てを受け入れる
そんな現実だったらみんな幸せでしょうか?
エゴとは自分であり私である。
エゴは思考や感情であって、生命ではない。
セルフとは生命や霊であって、思考や感情ではない。
筆 おてんと