セルフは名前、エゴは生年月日。
数秘は生年月日だけではなく、名前にも当てはめることが出来る。(出し方はちょっと特殊です)
きっかけ
生年月日ゾロ目の人は変わった人が多い。
名前のゾロ目は人生が波乱万丈の人が多い傾向にあった。
このことから、生年月日は性格(エゴ)を出し、名前は、その人の歩む人生傾向を出すということが分かった。
これが分かったときに、
性格(エゴ)か、人生か、どっちが本当の自分?
という疑問が起こった。
今までは、当たり前に性格(エゴ)の方を自分だと思い込んでいたが、、、
ある時、同じ飲み会で撮影された友人の写真を見て驚いた。
全員笑っているのだ。
逆に、その友人は、ほへとの撮った写真ってみんな怒っているようだといった。
その時に、同じ空間を生きているけども、当たり前だけど、人それぞれ、感じ方は違うのだ。
感じ方が違えば、心に映る現実も全員変わってくる。
ということは、その人ではなく、その人の感じた現実の方がよりその人ではないか?
やがてカメラを趣味ではじめてからそれは顕著になっていく。
もし、ごく平凡な日常ならカメラを落とした時に、カメラを無事を心配する。
しかし、海外旅行や結婚式など、貴重なデータが入っている場合は、カメラよりメモリカードの無事を心配する。
カメラ=エゴ、画像データ=人生、という図が明確となっていった。
そう考えた時に、
花というキーワードで画像検索をかけた時に現れる無数の花の映像のように、
神様があなたというキーワードで検索をかけた時にあらわれるのは、あなたのプロフィールや姿形ではなく、あなたの見てきた感じてきた無数の現実(シーン)が表示されるのではないか?
死ぬときに、人生が走馬燈のようにフラッシュバックするという。
死ぬに至って、良い人だったと思われて死にたいか?
良い人生だったと思って死にたいかだ。
必死にちっぽけな安物カメラを守る生き方をしている。
真冬の河原で、夜空の星を眺めていた。
振り返れば、なんとかく、自分がちっぽけに見えた。
いい人生、すばらしいと思える一生を送りたいと思った。
その時に、自分が認められたい、自分が何かしなければいけない、
というエゴ的なものが消えた。
人生というものに委ねることにした。
(NHKプロジェクトX調で)
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2013年10月18日
この記事へのトラックバック
走馬灯というか、自分の後ろ姿を見た感じです。(ロクな背中じゃなかった)もしかして私というのは、船が進んだ後に出来る波紋に近いものなんじゃないかとうっすら思いました。
以来大切なのは行動なんだ、人に好かれるよりも大切なことなんだと夢の為に思い切った行動にも出ましたが、結局自分の首を絞めている状態です。
これはほへとさんのいう、エゴが強くなっている状態なんでしょうか。だけどもやはり、このまま何も形に出来ないまま、またあの「死ぬかも」という経験をするのが嫌で嫌で仕方ありません。
人生というものに委ねるとは一体どういうことでしょうか。
しまさんへ、運命とはちょっとニュアンスが違うんですね。
いい人生の為なら、エゴの意地は捨てないと、意地のせいで人生が停滞するということです。