セルフという概念は今までの魂的な概念ではない。
死ねば肉体から抜け出して天界へ行く、そんな魂とセルフはまったく別の概念です。
また、通常の意識を状態を高めて行けば、セルフになるといったものとも違います。
意識を高める事は大切です。
セルフとは方向性が違います。
潜在意識や集合意識的なものとは、似ていますが、微妙ですね。
セルフとは、生まれて死ぬまで、自分が経験したこと、感じた事、思った事、知り得た世界の全てです。
大雑把にいえば、人生です。
ある意味、生まれて、そして、死によってセルフは完成します。
神様から見たら一本のビデオかも知れない。
そのビデオには、生まれて死ぬまでの全経験が書き込まれています。
ちなみにビデオのタイトルはあなたの名前が書いてあります。
死ぬ瞬間、今までの人生が走馬灯のように巡るといいますが、実はそれがセルフであり、癒されて光のトンネルを行く魂側(エゴ?)とは別であります。
わかり易い例えとして、
ここに写真が沢山あります。
これを撮影した人側ではなく、この写真が重要なのです。
この写真こそが生きた証しなのです。
だから、この写真を撮影したエゴ側ではなく、
撮影された側である、この写真の方こそが実は本当のあなたなのです。
その概念がセルフです。
高齢者が、認知症によって、今までの記憶を無くしていっても(カメラ故障?)、その人の人生の経験(写真)は消えない。
やがて、死を迎えた時、そのセルフ(写真集)は完成し、やがて、次の命を生み出す場となります(謎)。
生年月日の性質は、カメラの性質のようなもので、大切なのはカメラではない。
名前は、撮影された写真集(セルフ)のタイトルですね。
エゴはやたら生まれ変わり(カメラの修理&リサイクル)を気にするが、セルフには生まれ変わるというのは意味が無い。
だからあまり,過去生にこだわって欲しく無い。
多くの人は、撮影者側を意識しすぎます。
撮影者側はエゴであり、それが生まれ変わっても良いが?
今回は最後の撮影会と思って気合いを入れて下さいね(笑)
撮影された写真であるセルフこそが、あなたもエゴも地球も全て含んでいる、統一された私である。
生まれ変わることは意味の無い、唯一の私、これがセルフです。
だから、この生命を輝かすことは、しっかり、この世界を見つめて、この世界と対話して、特別でなくても良いし、すばらしい必要もない、あなたらしい世界を作っていって下さい。
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2007年05月11日
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先延ばしせずに気合入れ直します^^;
ここ最近の私のモヤモヤにピカリとスポットライトをあてて頂いたような感じです♪
ありがとうございます^^
眼前が一気に明るく拓けた気がします。
ほへとさん、いつもありがとうございます。
最近は自分の身の回りの状況を感じて自分もその中のひとつなのだという、一種安心感???みたいなものを感じています。
自分のものづくりにはプラスになっているかどうかは別だけど…。
でも人の作品<表現>に良いとか悪いとかを人が決め付けるものではないと感じています。以前の私にはありえない余裕ぶり…?です。
毎回とても興味深くブログを読ませていただいています。
ありがとうございます。
ほへとさん あらためて大切なことを感じさせて下さってありがとう。
ようやく、セルフの説明です。
思いのほか反響があって書いてる方も力をもらいます。
(昨日は通常アクセスの1.5倍!)
的外れなことを言ってたらごめんなさいですが今までに思ったことをもとに質問いたします。
以前、河合隼雄先生が、人生を、川の真ん中に立つようなものとたとえておられました。できごとは、川の上流から流れてくる何かのようなものだと。
で、多くの人は、いちいち流れてくるものを捕まえて自分のものにしようとするけれど、しんどいし、持ちきれないから、それをしっかりと受け止め、感じたら、また流れに返してやればよい、というニュアンスだったと思います。
当時私はこれを読んでかなり楽になりました。
しかも、悪いものを拾ったから返すのではなく、いいものも悪いものもしっかり感じたら手放すというところが好きでした。
そうすれば、いいものを手にした(職場で地位が上がった、モテモテになったなど)ところで、傲慢にならないでいいし、悪いものを手にした(仕事で失敗した、嫌われたなど)ところで、必要以上に凹むこともないからです。
ただその手ごたえのみをからだとこころに刻んでいければ、ゴツゴウさまという鎧をまとわずに、はだかに近い身軽なかっこうで強く生きていけるかと思いました。
今もそういう感じをコツとして日々過ごそうとしているのですが、てっきりその手ごたえを感じる感性の部分がセルフで、流れてくるものを捕まえるからだというか、いれものであったりするものがエゴかなというイメージを持っていたのですが、ズレていますか?
その、ファインダーをのぞいている主観というか、感じる感性の部分というか、は、どのあたりにあたるのでしょうか??
川の流れがセルフで、感じているのはどっちにしろエゴです。
河合隼雄先生というかたも、エゴのコントロールのことをおっしゃっているのと思います。
セルフは、ファインダーに写っている被写体であり、どっちにしろエゴが感じたもの全てです。
では、一度、被写体になっているということを意識してすごしてみようとおもいます。
写真写り、ということではなくて、ちょっと距離をおいた主観で眺めてみよう、という感じでです。
いつも刺激を頂戴しています。ありがとうございます!
という意識が近いですね。