「命」という言葉は、なんとなく「私の命」と解釈される。
私と命は切り離せないのではある。
しかし、「私」が「命」を所有しているという、上下関係はいただけない。
私がいるから命がある。否!
「命」があるから「私」がいるのだ。
大脳新皮質が死んでも、脳幹が生きていれば、「命」はあるのだ。
そもそも、「私」が眠って、この世界にいなくても
「私」は生きている。
私とは?
まず、「命」はひとつである。次元を3つほど上げれば、(ステージ5領域)
ロングロングアゴウ。
ひとつの命である、一個のバクテリアが誕生する。
多細胞生物になり、原生生物になり、脊椎動物(魚)になり、哺乳類になり、それはDNAに刻み込まれている。
何十、何百億の人間というエゴを生み出すに至る。
「命」があるから、私がいるのだ
「私」は「命」の一部なのだ。
「私の命」も「命」の一部なのだ。
「命」という言葉を、もっと大きなものに解釈したい。
「私」を「命」に捧げるのだ。
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2018年11月30日
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