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2023年01月17日

「見る」ということ、ダラダラと

あらためて、見るということについて、ぼーっと考えていた。
(※注意、だらだら系でまとまってない話なので、、)

「見る」という視覚というやつは、光が対象に当たり、その反射光をレンズ眼で焦点させ、現実世界を認識するのだが、
現実世界のオブジェクトを認識する、すなわち画像処理には、多くの脳みそが必要となる。

その結果、高度な画像処理により、目の前のコップがコップなのだ。

視覚とは、対象を離れていないと見ることはできない。

空間にある対象を認識する。それは光を見ている。
光を解析分析している。
結果対象として認識する。

「見る」というのは、現実世界だけでもない。
「見る」というのは、例えば、鮮明に夢を見ることもある。
誰かを、何かを、思い浮かべるて、それを思い出し見ることもある。


現実に見たものを、記憶する。

光をそのまま記憶している?いや光を解析分析した結果だけを記憶している?

記憶するときに、いろいろな思い、感情といった、主観も一緒に記憶される。


また、時には、自身も見る。
自分を見つめる。それは鏡ではなく、心の中で、自分と距離を取り、自分のイメージや自分の感情や、自分の行動を見る。

反省するときなど、動画を再度見るように、確かめるように。

そうなるとやはり、純粋に見るというのが大事になってくる。
主観が決して大事ではないというわけでもない、ある程度、感情や感動など心が動かなければ、記憶もされないだろう。

そんな感じで、あれこれ、考えていたら、「見る」から脱線してしまっていた。

結局、言葉にするのは難しいが、

純粋に、現実世界を見る。

それは、主観的に見ようとするエゴと、セルフという純粋な色となる。

例えば、偉大で有名な画家の絵を、安易に判断できないように、
実はこの世界も、安易に判断してはいけないと思う。
判断とは、思考だけでもなく、無意識の感情もそうだ。

睨みつけるような目も、ニコニコ笑う目も、純粋ではない。

純粋な子どの目のように、やはり、物事を見る時には、目には力を入れてはいけない。

そんな、純粋な目は、一番輝いている。

ということは、やはり、私の本質は光なんだ。

全てを忘れたように、生まれて初めて見るように、
たまには、純粋に、「見る」ということ、やってみましょう。
posted by ほへと at 22:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言(読み物) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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